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第79話 娘を病院へ残して退院した日、夫の名前で別の胚が動かされました

last update publish date: 2026-10-25 21:24:23

第79話 娘を病院へ残して退院した日、夫の名前で別の胚が動かされました

 朔也の日常監護補助者用端末は、陳述書の流出が判明した日のうちに警察へ提出され、病院は、彼に付与していた電子閲覧権限を一時的に停止した。

 停止されたのは、灯の心拍や呼吸状態を家族用画面から確認する権限、医師から送られる説明記録を読む権限、夜間の緊急連絡を受ける権限であり、新生児集中治療室へ入る資格まで直ちに失ったわけではなかった。それでも、端末から灯の名前が消えた画面を見た朔也は、何も言わず電源を切り、自分の鞄へしまおうとしてから、もう自分の物として持っていてはいけないと気づいたように、警察官へ差し出した。

「俺が漏らしていないと証明されるまで、面会も控えたほうがいいのか」

「現在確認されているのは電子情報の流出ですから、院内で職員が付き添う面会まで禁止する理由はありません。ただ、旧取締役側から、調査が終わるまで日常監護補助者の指定自体を停止するよう申立てが出ています」と芙美が答えた。

「早いですね。記事が出たばかりなのに、もう申立書まで

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    第80話 生まれたばかりの娘が、別の胚を融かすことへ同意したことにされました 凍結胚Cは、すでに長期保管区画から処置前区画へ移されていたが、融解そのものは始まっていなかった。 真奈が保存施設へ緊急停止を求めた時点で、予定時刻までは四十七分残っており、施設側も、朔也が申請を否定したことを受け、作業担当者を待機させていた。しかし、正式に中止するためには、申請者本人の認証を取り消すだけでなく、Cに関係する権利者の異議か、裁判所の保全命令が必要だという。「私の名前を無断で使った申請なのに、なぜ、俺が取り消すだけでは足りないのですか」 朔也は、真奈がつないだ保存施設の責任者へ、声を荒らげないよう努めながら尋ねた。退院したばかりの部屋には、まだ開けていない灯の寝台と、病院から持ち帰った薬の袋が並んでおり、その生活の途中へ、別の胚を融かすまでの残り時間だけが入り込んでいた。『申請には、久瀬朔也様のD提供者代理資格と、AUR‐011名義の受益者承認が付いています。現行制度上、複数の承認者のうち一人が撤回しても、残る承認の効力を施設だけで否定することはできません』「AUR‐011は、生まれたばかりの娘へ割り当てられた信託番号です。灯は、凍結胚を融かすことへ同意できません」『その点は理解しますが、当施設の登録上、AUR‐011は、久瀬灯様個人だけを指す名称ではなく、A、B、Cを含む継続研究対象の包括番号として残っています。出生後の信託番号と、研究上の包括番号が自動的に統合されており、どちらを優先すべきか、当施設では判断できません』「判断できないなら、動かさないでください。人の身体へ関わる試料を、承認が有効か分からないまま融かすほうがおかしいでしょう」『通常であれば、権利関係に争いが生じた時点で保留します。ただ、今回の申請には、保存期限に関する緊急判定が付いています。融解して生存性を確認しなければ、Cを今後も保存する医学的価値があるか判断できないとされています』「医学的価値がないと判断されたら、廃棄するのですか」『生存性が確認できなかった場合は、廃棄候補になります。ただし、法的な権利者の同意なく直ちに廃棄する

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    第79話 娘を病院へ残して退院した日、夫の名前で別の胚が動かされました 朔也の日常監護補助者用端末は、陳述書の流出が判明した日のうちに警察へ提出され、病院は、彼に付与していた電子閲覧権限を一時的に停止した。 停止されたのは、灯の心拍や呼吸状態を家族用画面から確認する権限、医師から送られる説明記録を読む権限、夜間の緊急連絡を受ける権限であり、新生児集中治療室へ入る資格まで直ちに失ったわけではなかった。それでも、端末から灯の名前が消えた画面を見た朔也は、何も言わず電源を切り、自分の鞄へしまおうとしてから、もう自分の物として持っていてはいけないと気づいたように、警察官へ差し出した。「俺が漏らしていないと証明されるまで、面会も控えたほうがいいのか」「現在確認されているのは電子情報の流出ですから、院内で職員が付き添う面会まで禁止する理由はありません。ただ、旧取締役側から、調査が終わるまで日常監護補助者の指定自体を停止するよう申立てが出ています」と芙美が答えた。「早いですね。記事が出たばかりなのに、もう申立書まで作ったのですか」「情報流出を知ってから準備したのではなく、朔也さんの認証情報が使われることを、先に知っていた可能性も考えるべきです。ただし、今の段階では推測にすぎません」 私は、朔也の端末が入れられた証拠袋を見ながら、昨夜から何度も言いかけていたことを、ようやく口にした。「あなたが、自分で陳述書を流した可能性はありませんか」 芙美も警察官も、私たちへ顔を向けた。疑っているなら二人だけのときに聞くべきだったのかもしれないが、あとで、妻だから庇ったと受け取られることも、夫婦の信頼を見せるため、証拠のない無実を口にすることもしたくなかった。 朔也は怒らず、私の質問から逃げることもしなかった。「流していない。ただ、信じてほしいとは言えない。俺は以前なら、世論を味方にするため、患者家族の言葉を使うことも考えたと思うし、君を守れるなら、公益性があると自分へ言い聞かせて実行したかもしれない」「今は、していないのですね」「していない。倉橋さんの母親から、息子を成功例にしないで

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    第78話 娘の株を守るため、手術直後の患者へ証言を頼めと言われました 灯の十五パーセントを患者へ渡すべきだという記事が広がってから一時間もたたないうちに、病院の代表電話だけでなく、産科病棟の受付や新生児集中治療室の家族専用回線にまで取材の電話が入るようになった。 病院側は、患者の安全と治療環境を守るため、私と灯に関する問い合わせへ一切答えないと発表し、入館証の確認も厳しくした。しかし、病院が何も話さないことさえ、「久瀬家から口止めされているのではないか」という記事に変わり、正面玄関へ集まった記者たちは、見舞客や退院する親子へまで声をかけ始めていた。 私の病室の窓から玄関前は見えなかったが、取材車のアンテナだけが、隣の建物の屋根越しに何本も突き出ていた。灯が自力で呼吸を続け、手術を終えた倉橋さんが集中治療室で生きようとしている同じ日の景色としては、あまりに騒がしく、誰かの命より、それをどういう物語にすれば多く読まれるかを競っているように見えた。「明日の退院時刻は公開しません。地下の職員用通路から車へ乗れるよう病院側と調整しますが、病棟内に紛れ込まれる可能性もありますから、澪さんと朔也さんは、許可のない訪問者へ対応しないでください」 警備責任者の説明を受けながら、私は、退院のために畳み始めた衣類をベッドの上へ置いた。家へ帰る支度をしているはずなのに、手に取るものは全て、灯を残して自分だけ出ていくための荷物に思え、着替え一枚を鞄へ入れるにも、娘へ言い訳をしているような気持ちになった。「記者から聞かれても答えないことはできますが、灯の財産を守る理由まで隠せば、私たちが十五パーセントを自分たちのために抱え込んでいるという話だけが残りませんか」「話すとしても、院内ではなく、代理人を通してください。記者会見を開く場合も、澪さんの退院後に、安全を確保した場所で行うべきです」「会見はしない」と朔也が答えた。「記事を一つ訂正するために灯の病状を公表すれば、次からも、世論が騒ぐたび、娘の身体について説明を求められる。株を守るために、治療記録を代金として払うつもりはない」「何も話さなければ、あなたが都合の悪いことを隠していると書かれますよ」

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    第77話 娘を病院へ残して退院しろと言われた日に、十五パーセントまで奪われそうになりました 倉橋怜さんを乗せた搬送車が病院へ着いたという連絡は、翌朝の六時を少し過ぎたころに届いた。手術前の検査で新たな感染所見は見つからず、予定どおり午前中から手術へ入れる見込みだと真奈が読み上げたとき、私は安心したというより、自分たちが一晩かけて動かした金が、ようやく誰かの身体へ届いたのだと実感した。 灯の配当を緊急融資へ回す手続を終えたあとも、私は何度か、あれは本当に正しかったのかと考えた。返済条件も担保も付け、患者救済という言葉だけで子どもの財産を差し出したわけではないが、灯は貸してもよいとも、嫌だとも言えない。私たちが、娘なら困っている人を助けるはずだと決めつけてしまえば、冬真が私へしたことと形が似てくるため、契約書へどれだけ条件を書き加えても、迷いがきれいに消えることはなかった。 朔也は窓際の小さな机へノートパソコンを置き、個人口座から患者緊急基金へ送金した記録を、芙美と真奈へ送っていた。昨日、灯の金だけを使わせないと言った約束を果たしたのだろうが、振込額を確認する画面を私へ見せようとはせず、送信を終えると、仕事用の端末を裏返して机へ置いた。「いくら出したのですか」「灯の融資額と同額だ。緊急基金は、一人を助けたあとに空になる仕組みでは意味がないから、今回返ってくるまでの間、次の患者へ使える金を残した」「なぜ、私へ相談しなかったのですか。個人資産であっても、今は、あなた一人だけの生活ではないでしょう」「相談すれば、君は半分出すと言うだろうし、今の君が自由に動かせる金は、治療と、退院後の警備と、灯が病院へ残る期間の生活へ使うべきだと思った。ただ、その判断を俺が勝手にしてよいわけではなかった。振り込んだあとで言うのは卑怯だが、反対なら、一部を戻す手続はできる」「戻してほしいとは言いませんが、私が反対しにくいところまで進めてから、選ばせた形にしないでください。善いことへ使った金ほど、返せと言う側が悪く見えるので、相談を省く道具になりやすいです」「分かっている。昨日、灯の金を動かすときには全員へ条件を確認させたのに、自分の金なら自由だと思

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    第76話 娘の最初の配当を、知らない患者の命へ使いました 灯の最初の配当を治療費へ使ってほしいと申請した患者は、二十八歳の倉橋怜という男性だった。 AUR研究へ登録されたのは十年前で、当時の説明では、先天性の免疫異常に対する長期観察と治療支援を受けるだけのはずだった。しかし、本人へ知らされないまま心筋細胞を採取され、D細胞との反応試験へ使われた結果、通常の移植待機患者とは異なる管理が必要だと判断され、久瀬製薬の補償対象になっていた。 今回の心機能低下が研究によるものか、もともとの疾患によるものかは確定していなかったが、どちらであっても、会社は治療費を負担すると過去の和解で約束していた。 それにもかかわらず、患者補償基金は、財団への違法な資産移転を止めるため一部が保全されており、通常の入院費や薬代は支払えても、緊急の補助循環手術と専門病院への搬送費を、数時間以内に用意できない状態だった。「会社が払うと約束した治療費を、なぜ灯の配当で立て替えなければならないのですか」 暫定協議会が始まると、私は最初に尋ねた。 会議には、灯の独立代理人である岸本、患者側から選ばれた美月と奈緒、医療者、補償基金の管理者、従業員代表、財務専門家が参加し、久瀬家からは私と朔也が、議決権のない説明者として加わった。「補償基金に金がないわけではありません」と財務専門家が答えた。「ただし、大口の緊急支出は、現在の保全命令では、裁判所の承認か、独立管理人二名の署名が必要です。管理人の一人が国外におり、電子署名の確認に最短でも一日かかります。一方、倉橋さんの受入先は、今日中に費用保証がなければ、別の患者へ手術枠を回す可能性があります」「制度上の手続が間に合わないため、赤ん坊の金を使うのですか」「その表現は正確です」と奈緒が言った。『言い方が厳しいから避けるのではなく、実際に、灯さんの財産を使う話だと全員が認識するべきです。患者を助けるためという目的を先に置けば、反対する人が冷たいように見えます』 私は、今すぐ支出を認めたいと思っていた。灯の配当で人が助かるなら、使ってよいではないかという気持ちがあり、娘の財産を他人へ差し出せ

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    第75話 父親欄が空白の夫は、初めて娘を抱きました 冬真の全計画が開示された翌朝、灯は、外部ペーシングを三十分停止する試験を受けることになった。 補助装置そのものを外すわけではなく、心拍が設定値を下回れば自動的に再開するため、直ちに危険な状態へ陥る試験ではないと説明されたが、私には、娘の心臓が自分だけの力で動けるかを確かめる三十分に思えた。「灯さんは、これまでにも短い時間なら、自律した心拍を維持しています。今回は、その時間を延ばし、呼吸状態や血圧へ変化がないか確認します」と篠崎医師が説明した。「数字だけを見ていると、わずかな変動も悪化に見えますから、保護者の方は、モニターを監視し続けないほうがよいと思います」「見ないでいれば、数値が悪くなりませんか」「澪さんが見ているかどうかで、灯さんの心拍は変わりません」「分かっていますが、見ていないときに下がれば、自分が目を離したからだと思う気がします」「それは、医学的な因果関係ではなく、親としての罪悪感です。罪悪感が生じることまで止められませんが、その感情を、灯さんの状態を決める力だとは考えないでください」 正しい説明をされても、私はモニターから目を離せなかった。緑色の線が一拍ごとに立ち上がり、数字が一つ変わるたび、自分の身体より細い何かで、娘とつながれているような気がした。 朔也はモニターを見ず、保育器の脇に置かれた椅子の高さを調整していた。金属製の脚が床を擦る音へ看護師が振り向くと、彼は小さく頭を下げ、音を立てないよう持ち上げて移動させた。「あなたは、心拍が気にならないのですか」「気になるから見ないようにしている。俺まで数字を監視し始めれば、二人で一拍ごとに騒ぎ、篠崎先生から退室させられる」「私は騒いでいません」「声に出していないだけで、さっきから数字が下がるたび、俺の袖を掴む力が強くなっている」 言われて初めて、私は朔也のシャツを握っていたことに気づいた。手を離すと、布には指の形どおり深い皺が残り、朔也は伸ばそうともせず、そのまま椅子へ座った。 試験開始から十分を過ぎても、灯の心

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